SENSHU FACE:陸上部 好楽荘と専修大学

令和4年の第98回箱根駅伝に、専修大学陸上部は、2年連続70回目の出場を決めた。
それに関して、陸上部のOB会「走友会」の市川会長にコメントを求めたところ、思わぬエピソードをご披露いただくことができた。


【お墓参りで出場祈願】

2021(令和3)年9月。
市川会長は箱根の宮ノ下「好楽荘」に赴いていた。「好楽荘」は、かつて専修大学陸上部が箱根で練習する際の常宿としていた旅館で、市川会長も現役時代、大変お世話になったという。
好楽荘の女将さん、曽我益子さんは、箱根駅伝に専修大学が出場すると、手製の「S」の旗を持ち、宮ノ下で熱烈に応援してくれていたという。

【曽我益子さんが振った「S」の旗と共に】


市川会長は、すでに故人となられている曽我益子さんのお墓参りに訪れたのだった。

好楽荘の前には、専修大学にゆかりの箱根駅伝の碑が建っている。
専修大学が箱根駅伝の常連であったときは、その歌碑の前を通過するとき、中継の担当者や解説者がその由来について語っていたという。
しかし、本戦出場からしばらく遠ざかっていたことで、この歌碑が箱根駅伝の中継で取り上げられることもなくなってしまった。
前年の2020(令和2)年。そんな状態の中で、歌碑のこと、曽我さんのことが気になった市川会長は、コロナ禍の小康状態を見計らって当地を訪れた。
少数の仲間と共に、好楽荘で思い出を語り合い、曽我益子さんのお墓に詣でた。曽我さんの墓前では「箱根駅伝へ出場し、宮ノ下の歌碑の前を走らせてほしい」とお願いをした。

【宮ノ下の歌碑の前で】

その後行われた予選会で、専修大学は、下馬評を覆して予選会を10位で突破した。
祈願した通り、宮ノ下の歌碑の前(5区・6区)を専修のタスキが駆け抜けることができた。
予選突破の15秒の差は、曽我益子さんの導きではないか、と市川会長は言う。

その思いもあり、市川会長は、2021(令和3)年も、曽我益子さんのお墓をお参りした。さらに、その年は、小山国夫選手のお墓(東京の小平市にある)にも足を運んだ。
小山選手の墓地には、専修大学から贈られた、立派な墓石が建っていた。
そして2021(令和3)年の予選会では、専修大学は順位を一つ上げ、9位で突破することができた。


【悲劇から始まった絆】

好楽荘・曽我益子さんと専修大学の縁が始まったのは、1956(昭和31)年の、箱根駅伝直前のことになる。
同年12月11日、山下りの練習をしていた小山国夫選手が、観光バスと接触。その現場が、たまたま宮ノ下の、好楽荘の前だった。
事故を目撃した曽我益子さんは、真っ先に駆けつけ、対応に当たってくれた。
残念ながら、小山選手は帰らぬ人となってしまった。
しかし、曽我さんの献身的な対応に感謝した専修大学陸上部は、以後、好楽荘を箱根での常宿とし、長い交流が始まることとなった。


好楽荘の前に建つ碑は「関東大学駅伝競走第35回記念碑」である。
この記念碑には、小山選手のお母様の和歌が刻まれている。
「若ざくら 箱根の山にうえられて めぐみのつぼみ ひらくうれしさ」

この歌からもわかるように、この歌碑は、小山選手を偲んで建てられたものではあるが、決して慰霊碑ではない。
専修大学の、いや、箱根を走る全ての大学の、選手(後輩)たちの未来を祝福する「記念碑」である。
(小山選手が出場するはずだった大会は第33回大会)
小山選手以降、箱根駅伝に関連した重大事故は、起こっていない。



【曽我益子さんのお墓の前で】



【小山国夫選手のお墓】


追記:2021(令和3)年12月、老朽化が進んでいた小山選手ゆかりの歌碑の改修工事が完了した。新しい時代の始まりを予感させる出来事に思われる。


こちらの記事は、走友会・市川会長のご寄稿を元に、SSCが編集したものです。